「遠慮させていただきます」
 
「あー 大丈夫です」
 
そんな風に口にはださなくても、「遠慮」することってありますよね。
 
なにかの役割に抜擢されたけど周りに遠慮して適当な理由をつけて断る。
 
ごちそうすると言われたのに遠慮してワリカンにする。
 
遠慮は一般的に上品で控えめな言動や行動だと思われていますし
 
自分自身が遠慮するときはどこか「今自分は上品な態度をとっている」と感じているように思われます。
 
しかし逆に他人から遠慮されたとき、なにか「さびしい」ような気分になるのはどうしてでしょう。
 
きっと、自分が好意で何かをしてあげよう・自己犠牲を払おう、と思ったときに、相手から拒絶されたからなんでしょうね。
 
そう考えてみると、私が遠慮するたんびに、私は遠慮された相手を傷つけている、ということになりませんか?
 
もしかしたら遠慮って、何らかの理由、「面倒くさい」とか、「あとあと不利になるんじゃないか」、とか自分の基準で相手の好意をうけたくないと判断したときに使っているんじゃないでしょうか?
 
だとすると遠慮という行為は見かけこそ上品ではありますが「他人を排除する姿勢」に他ならないわけです。
 
しかも遠慮は他人を傷つけるだけではなく、自分自身も傷つけているのではないかと、私はにらんでいます。
 
先ほどの例でいうと、抜擢された役を断るときは「私は無能な人間です」
 
オゴリを断ったときは「私は飲食で他人の言いなりになる人間です」
 
これを世間に向かって言い放っているのと実は同じことになっているのではないかと。
 
こんな事を私自身が知らずしらずのうちに発信しているとしたら、、
ちょっとというか、かなりイヤですよね。
 
こう思いだしてから、私は与えられた役割はなるだけ引き受け、相手が好意でごちそうしてくれるときも遠慮なくうけることにしています。
(そのかわりお店の外に先に出て、きっちりその場でお礼をすることは欠かしません)
 
「遠慮は上品な強情」、そういう言葉があると聞きました。
 
そういうわけで、自分都合の「遠慮」ではなく他人の都合も意識した「配慮」ができる自分であったらいいなあ、と最近の私は考えています。
 
☆もちろん時間の制約があって引き受けかねる役割であったり、相手の悪ーい下心がミエミエのオゴリや贈り物は、理由をはっきり言って断るべきだと思います。
具体的には
「月〇〇時間しか使えませんのでその役を引き受けるのは難しいです」
「あなたとは対等な関係でいたいのでワリカンにしてください」
といった具合です。











